抜粋:第13部 《米兵捕虜の死》屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

『あなたの落とした原爆で』より

 

わたしたち日本人は三十数万死にました。

けれどあなたの原爆で

あなたのお国の若者も二十三人死んだのです。

 

ひろしまに原爆が投下される前に日本爆撃にきたB29から

落下傘で降下した米兵を捕虜にしてあった。

女の捕虜もいたという。

米兵捕虜の最後の姿は、

どんな着物だったろう、どんな靴であったろう。

 

ひろしまを訪ねて驚きました。

爆心地近くの地下壕にいれられていた米兵捕虜たちは

やがて死ぬかもしれません。

いや、或いは生きたかもしれないのです。

けれどその前に

日本人が虐殺しているということを知りました。

 

わたしたちは震えながら

米兵捕虜の死を描きました。

1901年6月20日~1995年10月19日

1912年2月11日~2000年1月13日



丸木俊 著 “女絵かきの誕生”より

朝日新聞社出版 ISBN4-02-259193-5 C0395 P1250E の一部抜粋

 

【東京空襲】

戦争がだんだんひどくなって、とうとう東京へB29が飛んでくるようになりました。そのころもまだ、作品の発表をつづけていました。勝った勝ったと言っていたのにどうもおかしいと、そろそろみなが考えだしました。けれど、みんなだまっていました。

 

あちこちの都市が爆撃されはじめました。焼夷弾で浅草が焼け、おおぜいの人びとが殺されました。あかるい昼の空をB29が銀色に翼をかがやかせながら編隊で飛んでいきます。小さな日本の飛行機が全速力で追いかけていきます。パッとB29が光ったように思えました。すると、煙が立ちのぼって、ひらひらとうねりながら煙がねじれて落ちてきました。日本の飛行機が体当たりをして落ちていくのです。B29はなにもなかったように飛んでいきます。

 

昼は軍需工場へ爆弾が落ち、夜は民家が焼夷弾で焼けていきました。明けてもくれても「ウー」とサイレンが鳴っていました。この間をぬって、防空演習がおこなわれました。わたしたちのアトリエ村の横着な画家たちも防空頭巾をつくらされ、とび口やバケツをさげて訓練に出ました。空き地には防火用水のために池がほられました。毎日どろにまみれて土をほりました。収入はぜんぜんありませんでしたが、買う物もありませんでした。長い長い行列をして、やっと5~60㎝の大根を買います。米の配給はどんどんへって、とうとうサツマイモとなり、ダイズとなり、マメかすとなりました。マメかすをフライパンでいっては、ポリポリかじったりしました。

 

ある日、軍事訓練をするから出てください、と、位里のところに呼び出しが来ました。ゲートルを巻いて、配給のカーキ色の服を着て、出かけました。日がとっぷりと暮れるころ、体じゅうを雪でびっしょりぬらして帰ってきました。手はこごえて赤くふくれて動かなくなっています。鼻の先やほおは紫色にこわばって、口ひげやあごひげに雪がたまって、しずくが落ちていました。そのまま高い熱を出して位里は寝込んでしまいました。

 

その日集まった人びとは、位里のような40歳をすぎた人たちばかりだったそうです。若い男は出つくしてしまっていたのです。まわれ右、と号令をかけられれると、左右の人が顔をむきあわせてしまうような年とった連中、酒屋の主人や、絵かきや、文士や、えんとつそうじのおじさんたちだったそうです。「オイチニ」といわれれば、右手と左足が同時にあがる緊張ぶり、みぞれ雪の中を、泣きべそをかきながら訓練を受けたのだ、ということです。位里の熱は一週間つづき、空襲はますますはげしさを加えていきました。

 

そのころ、東京がこわくて浦和に疎開していた絵の好きな友だちが、浦和にも空襲があってこわくなったから、郷里の岡山に帰る、その留守番に来てもらいたい、とたのんできました。片道24㎞、荷車を借りて、絵の具箱や、額や、着物などをつみ、とっておきのわずかな米と麦でにぎりめしをつくり、二人して出かけました。東京と埼玉のさかいの橋にさしかかったときには、荷車がえんえんとつづき、その間にトラック、リヤカーが列になり、先を競い、もつれあって走るのでした。東京の壊滅していく姿が浦和からひと目で見えました。華々しく、そしてなんという哀しい美しさでしょう。手と足をガタガタふるわせながら照明弾の明かりでスケッチしました。「退避!」と、さけんでいる声がします。けれどそのまま、七輪でぞうすいをたいていました。すると、シャーという、かきむしるような音がします。はっとして空をあおぐと、真っ赤に火をふいたB29が頭すれすれにつっ切っていきます。思わずかべに背と頭をぴたりとあてました。全身びっしょりの汗になりました。位里もさけびながら防空壕にとびこんでいきました。わたしはリュックサックをさげたまま、疲れて、あきれて、怒っていました。

 

「危ない、早く」と、壕の中からさけんでいます。ゆっくり防空壕へ入りました。入ったか入らないくらいにパッと足元から土煙があがりました。「バカ、しっかりせんかッ」位里がどなっています。警報が解除されてから、おそるおそるのぞいてみると、土があたりに散らばって大きな穴があき、何か深く入っているふうです。機銃の薬きょうだったのです。これが頭の上に落ちていたら死ぬところでした。

 

「ドカン」と、すさまじいごう音といっしょに、位里が、パアッと縁の下に転がりました。そうして障子が二枚はずれてとびあがり、大きな音を立てて縁側に落ちました。位里がやられた、大変だ、と思いながらも、どうしたことか、すぐにはかけつけないのです。手に持っていたほんの少しの米の入った袋をかかえて台所をうろうろ二、三べんまわってから、やっと位里のところへ走っていきました。どんなに愛している、などと言っても、あんがいあてにならぬものかもしれぬと思ったりしました。

 

「わしはひろしまへ行こう」と、位里は言い出しました。ひろしまは位里の郷里です。

 

【ひろしま】

なん日もなん日も東京駅で行列しました。遠縁の人や友人に紹介状をもらって、ようやく切符を手に入れました。1945年7月も終わりに近い26日か27日だったと思うのです。

 

行李を二つ、ルフランの絵の具とカンバス、たった一枚の毛のスカート、二人が大切だと思うものをつめました。空襲のこないうちに、人の混まないうちにと、午前3時、二人は乳母車を借りて、つんでいきました。

 

荷物を発送してから位里がリュックサックを背負い、ゲートルを巻いて家を出てしばらくたつと、北海道から「チチキトク」の電報がきました。わたしを北海道へ帰そうという父のはからいにちがいないと思いました。電報を持っていけば、優先的に切符をくれたのです。でも、やっぱりほんとうに「チチキトク」なのかもしれないと、位里を追って東京駅に行きました。

 

東京駅にはいくすじもの行列が長く長くつづき、空腹に疲れた人びとが大きな自分の荷物にもたれてしゃがんでいます。位里は見あたりませんでした。

 

浦和へ一人でもどりました。駅に着くと同時に、サイレンが鳴って、すぐそばの防空壕にとびこみました。知らない人たちばかりでした。バリバリという機関銃の音がして、壕にかけてあるトタン板に弾のはじける音がしました。みんな顔をおおい、耳をふさいでふせていました。

 

すっかり力のぬけたようになって暗い台所の戸を開けると、「どこに行ってたのか」それは位里の声でした。わたしはかけこんで泣きだしました。「このままどこにも行かずにここにいましょう」

 

位里は、前の晩の爆撃で天竜橋の鉄橋が爆破されて汽車が通らないので復旧をまとうと思って帰ってきたのでした。

 

その夜も次の日も空襲がつづきました。やっぱりひろしまへ帰らねばと、位里はまたリュックサックを背負って出かけました。でもその日もダメだったと帰ってきました。わたしは北海道へ行けば、父に逢えるし、米や麦にはありつけるでしょう。でも位里には遠くなるし、爆撃の最中にお互いの消息が絶えるのではないかと、心配になるのでした。「わたしはやっぱり年老いた両親を見て来る、お前は好きなようにせよ」ということで、位里はまた東京駅に行きましたが、その日も帰ってきました。そんなことをつづけているうちに、とうとう8月6日が来てしまったのです。

 

 新型爆弾投下、相当の被害あり

 

そのころ、どんなに負けても、勝った、勝った、と書かれていた新聞の記事です。ひろしまはたいへんなことになっているにちがいありません。一歩でもひろしまへ近づこう、というので位里は、「この汽車は途中までで、ひろしまへは行かない」という車掌さんの手をふりきって列車に飛び乗りました。浦和の家へ帰っても、わたしは落ちついていることができません。荷物をまとめて位里の後を追いました。

 

ひろしまの駅に近づくと、すれちがう列車はみんな被害列車でした。血みどろの人、焼けてむけた人、ひいひいと泣く大人、黙りこっくている腕のない人、人間とは思えぬ人びとが、次から次へと運ばれてはすれちがっていきました。

 

父や母や妹や、おいやめいたちはどうなったのでしょう。汽車は徐行を始めました。焼けただれた松の木、瓦のふきとんだ家、バラバラにくだけた家、そして焼け焦げた魚の骨のような柱やはりがつづいて、それから先は見わたすかぎりの平原、灰色になってしまった原野でした。ところどころに黒こげの倉庫が残っていて、煙と火をふいていました。

 

汽車がとまりました。ひろしまです。くずれたコンクリートの一角が残り、ホームらしいのが、瓦や焼けトタンに包まれて残っています。

 

陽はとっぷり暮れていました。おりてはみたものの、道という道は、針金と、瓦と、屍と、焼けトタンでうずまっています。歩くこともできません。山ぞいに遠回りして歩くことにしました。ここは郊外です。夏みかんをたわわにならしていた農家、白かべの美しかった家も、どれがどうなのか見分けがつかなくなっていました。

 

うめき声が聞こえます。おおぜいの人の声です。竹やぶの中からでした。傷ついた人びとが、熱い熱いと言いながら日かげをもとめて竹やぶへのがれたのです。「痛い、痛い」と言う人、「水、水、水」と言う人、「飛行機」という声も聞こえてきます。今は飛行機など飛びもしない夜空をながめて狂った人びとの声です。どうしてもそのそばを通らねばなりません。そして、あの群れの中に父や母がいるのかもしれません。突然、足にしがみついた人がいます。「助けてください、助けてください」とはなれません。無慈悲にもふり切ってにげだしました。ふりかえる勇気もありませんでした。家のあったところに近づきました。この家かもしれません。暗やみの中にかたむいています。それなのに人の気配がします。「オーイ」とよんでみました。やぶれた家の中から妹や父や母や弟がみんな出てきて、だきついて泣きました。みんな生きていたのです。父は頭に布を巻いていました。暗やみの家の中は大人でうずまっていました。うめく人、怒る人、泣く人、みんなけが人です。うずくまっているうちに夜が明けました。

 

むけた人、焼けた人、血をはく人、狂った人、人びとは次々と死んでいきました。屍を戸外へかつぎだしてならべます。血とウミと、人間のあぶらでぬるぬるとすべる屍です。肉親をたずねさがす人びとが屍をながめて通ります。その脇の下に焼け残った着物の模様が六日の朝に着て出たモンペのものです。どろどろになったわが子を戸板にのせて帰る父と母、皮膚がむけてしまった屍は歯並びでさがして歩きます。少しそっ歯だった、入れ歯があった、などと、わずかな手がかりをもとめながら。しかし、だれも引き取り手のない屍は臭気を発し、ウジがわきました。生きた人の傷にもウジがわきました。ウジに食われながら人びとは死んでいったのです。

 

わたしたちのいとこは、その日の朝、ふんどし一つで街の方をながめていたのです。そして、ピカドンの光と熱をうけたのでした。前側半身に大やけどをしました。後から知ったのですが、爆心地は6000度以上の熱とのこと。4㎞以上離れると白い布が有効だったようで、いとこは、ふんどしのところだけ助かりました。家は焼けずに吹き飛んでしまい、木の枝から枝へ蚊帳をつって寝かせてありました。ハエとカに食わせないためなのです。わたしが見舞いに行ったとき、どこからもぐりこんだか、ハエが卵を産みつけ、くいこんだウジを、いとこの奥さんがハシでつまみとっていました。ウジがなかなか離れず、いとこは「痛い、痛い」と大声で泣いておりました。